サッカーW杯日本対ポーランド戦

ありゃ。ずいぶん間が空いちゃた。えー、サッカーW杯日本対ポーランド戦見ました。


■「日本の文化に反している」「恥ずかしい」「フェアプレー?」…日本の時間稼ぎに各国メディア・有識者から非難轟々
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180629-00000059-goal-socc&pos=1


しかし、昨晩のサッカー、日本の最後の時間稼ぎボール回し。世界中から意外なほど批判されてるなあ。当の西欧チームがよくやる常套手段でしょうにねー。


これに問題があるとすればルール上の問題で、決して卑怯だとか恥だとか指差される問題ではない。まず予選突破しないと何も始まらない。選択は正しいと思いますよ。


ただし「つまんねえ!」けどね。(ーー;;


「日本の文化に反している」と海外から批判を受ける。カミカゼ・ハラキリ・武士道の文化を、向こうの人々も知ってる証拠なんだろうけどね。でも時代は進むんですよ。

【ブラジル音楽・訳詞】Toquinho & Vinicius「Onde Anda Voce」

トッキーニョとヴィニシウス「あなたはどこに居る?」



 

<訳詞>


哀しみについて語る時
あなたはどこに居るのか
あなたの目は何を見るのか
喜びに包まれながらも
死へと誘われていくような
私の体はどこにあるのか
 
美について語る時
歌は何処にあるのか
それは夕闇迫る
居酒屋から漏れ聞こえたような
私たちは何処で愛し合うのか
人は皆孤独だというのに
 

あてどない夜に繰り出す
彷徨うボヘミアンのように
いつもの酒場
後悔しつつも
人々の輪に押し出される
 

情熱について語る時
それは生きるために必要だという
また同じこの酒場で
飲み騒ぐことになるのだろう
本当のあなたはどこにいるのか
 
 
※ヴィニシウスは歌は上手いとは言えませんが、このナンバーでは非常にいい感じの歌唱です。酒浸りの毎日だった彼。人間の根源的な孤独を紛らわすためだったんでしょうか?

【ブラジル音楽・訳詞】トッキーニョ「水彩画」(1983)

(作詞:ヴィニシウス・ジ・モライス)



■水彩画


葉っぱのノートに黄色い太陽を描くんだ
5−6本まっすぐな線を引けば、簡単にお城が描ける
手の周りに鉛筆を走らせれば、それは僕の手袋
雨を降らせるなら、引っかき傷を書いて、そして傘


小さなペンギンが青い紙の上に落ちる
あるいは空を行く美しいカモメかな
北極から南極まで周回して
彼女と一緒にハワイ、北京、イスタンブール


白いヨットを描いたら、それは空と海との間のキスマーク
雲間にはピンクとグレーの飛行機
周りの色はすべてピカピカさ
穏やかに離陸し、望みとあらば着陸しよう


次のページには出航する船を描こう
仲間たちとおおらかに飲み食いする船旅
僕が回したコンパス円は世界となり
アメリカから他の国へ、僕は1秒で行ける


少年は壁の上を歩く間
待ち受ける未来へ到達する
僕も君も宇宙船のパイロット
待ってくれる余裕も時間もなく
世界は変わり、僕らに泣き笑いをもたらす


この道から何が来るのか、知ることは出来ない
道の終わりがどこに行くのかもわからない
だから僕らは、美しく描かれた歩道を歩こう
その水彩画は
いつか色褪せてしまうかも知れないけれど
いつか色褪せてしまうかも知れないけれど


ボサノヴァの酔いどれ大作詞家ヴィニシウスの遺作的な作品。どうやら死後に出てきた歌詞らしいです。それに相方トッキーニョが曲をつけて歌ったもの。ブラジルでは有名な歌ひとつだそうです。

日本人がサクラにエロス(性)とタナトス(死)を見る、その理由とは?


気象予報士さんの季節エッセイ。


■日本人がサクラにエロス(性)とタナトス(死)を見る、その理由とは?
https://tenki.jp/suppl/kous4/2018/03/26/27982.html

山口県下関市彦島八幡宮ペトログラフ
http://www.hikoshima-guu.net/petoro.html


中東原産の「アーモンド」の花は桜の花そっくりだそうで、これが旧約聖書やらユダヤ神話などのいろいろな伝説に「生命の木」として登場する。古代から宗教的生と死の象徴だったそうです。その思想がシルクロードを伝って渡来し、日本固有の桜と結びついたのではないか、という仮説ですね。話の終わりに登場する「彦島八幡宮ペトログラフ」は、本当にあるんだそうです!



まあこのエッセイ、突飛で面白かったですが、メソポタミア文明にまで話が飛躍するのは妄想かなあとも思いました(^^;)シュメール文化よりも仏教の、さらに遡って縄文文化にも、桜と「もののあはれ」を結びつける考えはあったようです。西行法師から本居宣長、太平洋戦争時の軍国主義を経て、日本人の「桜信仰」は徐々に、熟成され現在に至るのではないかと思いますね。

五輪フィギュア、ザギトワ選手の演技問題

 
■フィギュア15歳ザギトワが金メダルなら賛否必至?
1:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180222-00000003-wordleafs-spo
2:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180222-00000003-wordleafs-spo&p=2


平昌五輪女子フィギュアスケートは、まさにザギトワが金メダルを獲ってしまった。記事に書いてある危惧が現実になってしまった。


「演技後半でのジャンプは得点を1割増する」「手を挙げて跳ぶジャンプは難しいので加点する」という得点ルールのもと、それに忠実に従ったプログラム構成で、ザギトワはたった15歳で、見事五輪優勝をさらってしまった、と、これだけだと実に素晴らしい快挙で、何が危惧なのかと思うだろう。でも前のアメリカ五輪代表のアシュリー・ワグナーがこう批判しているのだ。


「彼女の演技前半は空っぽで、後半がカオスになった。これは演技ではない。採点の仕組みがそうさせていて、彼女のことを責めることはできないが、私は楽しめなかった。これはフィギュアスケートではないと思う。」と。


フィギュアスケートの演技プログラム構成は、ルーティーンと言っては何だけど、なんとなくの暗黙の決まりがある。まず最初につかみとなる難しいジャンプを何本か跳び、中間部でスローにした音楽でマイムや滑りそのものの美しさを見せ、後半はまた複数ジャンプで盛り上げ、最後に畳み掛けるようなステップワークからスピンで〆る、というものだ。誰しもがこの構成では面白くないのだが、この構成だとドラマ性が保たれるせいで、観客も安心して見られる。


ザギトワの場合は、前半ジャンプを全く跳ばず、本来クライマックスとなるべきステップ&スピンを、盛り上がらない前半に行ってしまい、後半はもうただひたすら跳ぶだけにしてしまう。従来からのドラマ性を無視しているのだ。「点数を取る」ために。


私の意見を書こう。私もこれには、正直ちょっと感心しない。高橋大輔浅田真央鈴木明子、皆最後のステップには、命がけと言ってもいいほど思いを込めてきた。その演技に感動してきたから。


私も、そしてワグナーも危惧しているのは、「点数稼ぎ」のために他の選手たちが、我も我もと、このザギトワ式「後半ジャンプ構成」を取り入れ、結果的にフィギュアプログラム全体のレベルがつまらないものになってしまうことへの危惧だと思う。


ただ記事にもあるが、この後半にジャンプを集中させる構成は、並の選手には出来ない。前半いくら抑えようとも後半までスタミナが持たない。それに前半抑えれば抑えるほど、本当に空っぽな演技になってしまう。ザギトワがそれをやって飽きさせないのは、彼女がものすごくきっちりした「バレエの基礎」を持っているからだ。彼女は跳ばなくても、ただ滑って動いて居るだけの所作が、実に美しいのだ。それで、前半ジャンプなしでも、そこそこ見れてしまう。


それに、ワグナーと私が擁護する「旧来構成派」の方が、暗黙のルーティーンに従っているなら、そっちの方がつまらない、唾棄すべき保守ではないか。ザギトワ陣営のほうが新しフィギュアスケートを目指す、希望の星ではないのか? そういう意見もあろう。もっともだと思う。私も本当は、どっちが良いのかわからなくなる時がある。


フィギュアスケートは過去数十年間いつも「採点基準が明確でない、ジャッジの主観と好みで判断される」という批判を受けてきた。今のルールの、技に細かく点数を加点減点していく方法は、その批判に長い間かかって応えてきたものだ。ある意味今の点数制度は、公平明快なスポーツ的判断への中間報告地点というか、ルールとしてまだ完全ではなく、改定の途上と言える。


構成の問題とともに、あまりにも厳しく取られる回転不足減点、手を上げれば加点という、安易な加点も問題だと思う。これでは「できの悪い4回転よりも、できの良い3回転の方が、審判受けがよく点数が高い」ようになってしまう。これではフィギュアスケートの進歩を阻害する。今回の五輪をきっかけに、ぜひともスケート連盟や選手コーチ達含め、大きく議論して欲しいところだ。

西洋美術の女性礼賛とアイドルブーム


■『日本と西洋の肉体表象』ヌードが生まれた理由
http://bigakukenkyujo.jp/blog-entry-39.html


西洋絵画にヌードが多いのはなぜか。騎士道などにも見られる女性礼賛の伝統はなぜか。ここだけ読んでもなかなか分かりづらいですが。礼賛の裏には隠された女性蔑視と男性の性の欲望があるんですが、それとともに現世を肯定するか否定するか、の考えも大きいんじゃないか。


江戸時代以前の日本は、あんまし現世現存在を肯定する文化ってなかった。極楽浄土に行きたいばっかりでね。美人画なんてのが出てきたのは江戸期も中期以降でしょう。庶民生活が安定し人々がいくらか現世も悪くないと思い始めてからでしょうね。


でも肉体美の礼賛思考は相変わらず無いから、美女礼賛の方法は変化球的、ソフィスティケートされたものになる。それが浮世絵の美人画であり……現代の「アイドルブーム」ではないのかな、と思ってみたりしています。結局ここが言いたいのね。(^^;
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