避難日記その2


●3月13日
避難所生活開始。12日の夜は本当忘れられない。避難してきた人で体育館はすし詰め。わが町は過疎地で、どこかしらからだの悪い年寄りしかいない。中には「要介護・介助が常に必要」なおばあさんもいて、一晩中たんを詰まらせゲロゲロ言っている。赤ちゃんも泣き出す。余震はずーーっと続いている。時々でかいのが来てみな叫びだす。全く異様な光景。ダンボールに毛布では眠れない。でもストーブは何台かあったのでその点は助かる。


飯は朝夕おにぎり一個だけの状態が3日ほど続いた。電気はすぐ開けてくれたが水道は翌日になった。便所は・・・恥ずかしながら外でした。


●3月14日
新聞がどこからともなく来て、学校の玄関ロビーにテレビが着く。ここで初めて、水素爆発の事実を知る。いや前日から避難民の間でもうわさにはなっていた。さらに、地震が岩手、宮城、福島、茨城のとてつもなく広範囲にわたっていること。想像を絶する大津波が各地に押し寄せたこと。3つの大地震が連鎖した有史以来最大の大震災だったことを知る。しかし空腹と朦朧とする意識で、この大事故をオオゴトと捕らえられない。どこがSFにような気がする。夕方、1号機に続き3号機も爆発と聞き、もうろうとした中で「ああ帰れない・・・」と思う。


●3月15〜4月2日
避難所生活は苦痛以外の何者でもない。まずプライバシーは全くない。ひとりになれる時間が一分たりともない。音楽を聴くなんざ笑い話だ。


水洗トイレが復旧しても、しゃがんで用を足している時間ですら、外からノックされ「早くしろ」といわれる。配給食事、給水車水汲み、ことあるごとに列に並ばされる。体の悪い年寄りは周囲の者が代理で助けてもらうがそれも限度がある。実際、避難所で倒れて余計体を悪くして搬送されたり、階段から落ちて運ばれたりした人は連日出た。高齢者・身障者には地獄です。


やがてライフラインが来て、5〜6日すれば救援物資も来はじめますが(逆にそれまでは何も来ない)そっからあともまた大変。このへんはまた書きます。