サッカーの大敗に寄せて

さて、書かずにゃいらいられぬ、サッカーですが(苦)

まったくここまで大敗になるとは思わなかった、と、誰しもが言うでしょう。加えて、ジーコ監督の、守備面での無策さ、選手交代のタイミングの甘さ、ひいては、ゲームプランニングの甘さを、指摘する声も、高まるでしょう。相手方のヒディング監督の、絶妙な控え選手の起用法と比較すれば、なおさらです。

しかしね「そんなことは、ジーコ就任時から、解っていたことではなかったか?」と言いたい。名選手は名監督にあらず。天才肌で嗅覚・感覚でサッカーをしてきたジーコに、組織だった守備だの戦術だのの指導を、要求する方が間違っている。そういう面は、トルシエが基礎を作ってくれた。それを土台とした応用として、選手の自主性・イマジネーションを養う意味で、サッカー協会はジーコを選んだのではないのか? まさか協会は「サッカーの神様」のカリスマ性、ネームバリューに目が眩んで、ジーコを選んでしまったというのか?

日本のスポーツは「体育」の延長である。学生時代の先生と生徒の関係から抜けきれず、指導者のプランに服従することが仕事だと、未だに選手自身がそう思っているケースが多いのではないか。それでは、どんなに実力を磨いても、そこに競技者自身の自主性がなければ、必ず行き詰まるし続かない。東洋の魔女時代の大松監督のように「黙ってオレに着いてこい。シゴキに耐えれば必ず勝たせてやる!」は、もう化石時代なのだ。選手も関係者も、そして我々ファン自身も、まだ心のどこかで、そういったカリスマ監督を求めているのか。依頼心もいい加減にしろと言いたい。

ジーコは、そんな日本のスポーツ界の依頼心に、刃を向けたのだ。大人なれにと言ったのだ。だから、この負けは通過儀礼。いつかは必ずやってくるモノだったのだ。
負けたのは、誰のせいでもない、やった当人がが下手くそだったから。精神的にも弱かったから、それだけだ。

もうひとつ加えて。この戦いとは別に、サッカーの常道として、1対1となった時点で、引き分け狙いに切り替えて、時間までのらりくらりボールを回し、逃げ切る作戦も選択肢として考えられる。まあこのオーストラリア戦では、そうやっていたらもっと悲惨だったろうと思うから、他の場合に置いての話だ。日本人はこれを「卑怯だ」「逃げだ」と思う。しかし欧米では「卑怯でも何でもない、こういう戦法もアリで、計算され頭脳的なかけひきだ」と評価される。どっちが正しいとか美しいかは私には解らない。ただサッカーは、まぎれもなく西欧の競技だ。