飯館、相馬、南相馬へ


昨日はイトコにつきあって、浜の方、相馬・南相馬へ行ってきました。車中片道2時間往復4時間。海際を見るのは震災以来初めてです。


途中、ニュースで話題になった飯館村を横断します。第一原発から40キロ弱、にありながら、全村避難となった村です。そこは確かに、一般家庭は全てカーテン、ブラインドが閉められ、ひっそりとしています。でも何かの部品工場かな……は、車がぞろっと停まっていて稼働していました。警察署や消防署にも何人か人が居るようでした。イトコが前に来た時、「国道でイノシシに並走された。車並に足が早いぞ!」と言っていましたが。信号や街灯は生きているようでしたが、夜ここを通るのは怖いだろうなあ。


飯館村の西手前、川俣町というのですが、ここは一部山木屋地区という部落が避難で、他、高校や役場のある地区は平常通り動いている。学校の土壌入れ替え、高圧洗浄などは終わったようで、高校生がジャージ姿で集団でバスを待っていました。複数台数バスがやってきましたので、通学は町の方で、バスでの送り迎えを細かくやっているようです。


この二つの町の境界線、わずか数十メートル違うだけで、片一方は避難所、片一方はのどかに犬の散歩とかしている。この落差。疑わしきは全部避難させろという論調もありますが、そういう可か不可かの二者択一ではなく、もっと住民側に立ったフレキシブルな対応が出来ないものか。考えてしまいました。


南相馬市も避難区域とそうでない区域が共存し、大変な町です。中心商店街は大体、6割の帰還率でしょうか。まだシャッターを閉めている店も多いです。ただコンビニ・スーパー・銀行・医者などはやってました。地元資本のスーパーチェーンがあるんですが、そこはまあまあの人出が戻ってきました。このスーパーは震災翌日も、余震の嵐の中、根性で営業を続けた強者です。その判断も社長ではなく(社長は出張先で足止め連絡不能だった)各店舗マネージャーと従業員の話し合いで判断したという。住民の方にとってはどれほどありがたかった事か。


いっこ北の相馬市は、有名な湾……松川浦という、津波で壊滅的被害を被った地域があります。そこを車で一回りしてきました。物見遊山とは言わないで下さいね。半地元民として、どうしても見ておきたかったんです。住宅街は流され更地にがれき。鉄筋の市場の骨組みだけが残る。海から2キロ以上ある国道沿いに漁船がボコボコ打ち上げられていたり、反対に湾の中にバスが沈んでいたり。商店でも、隣り合った片方が流出しているのに、片方隣が軽損で営業再開していたり。「いったい人生はどうなっているのだろう」と思わずにはいられない。こういう温度差が、震災後月日が経つごとに浮き彫りになって、被災者同士の団結心や、思いやりを薄めてしまう。そんなことにならないように、私自身も気をつけていきたいです。


帰りがけ南相馬市の、「まちなか広場屋台村」にある、情報紙に広告を載せて頂いているラーメン屋さんで、遅い昼食を頂きました。屋台ですから本当に狭い、プレハブのような店ですが、若い店長さんが探究心を持って作っています。「ほんとは地元産の原料を使いたいんですけど、今はそれは出来ません。チャーシューは宮城産ですが、状態最高ですから、今日のチャーシューメンはいいですよ!」と言われたのでそれにする。確かに柔らかく旨い。この店長さん、実はあんまり明るく威勢がいいとは言いがたい(苦笑)。恥ずかしそうにぼそぼそと、地元の言葉で朴訥にしゃべる。客商売に向かなそうだが、だからこそ信頼できる。「近所の肉屋さんの親父さんに「チャーシューの煮方がなってない!」って怒られたんです。「俺が教えてやるからやってみろ!」って。確かに旨くなった。「愛情もって旨いもんを作ろうと思ってやれば、ちゃんと旨くなるんだ、って思いましたね。」と。


「死の町」呼ばわりされたり「放射能の町にいる奴はどうかしている」とか言われても、そこにとどまり、夢と復興のため、頑張っている人を見て、嬉しく帰路につきました。(^^)