魔が差すという言葉

・・・秋葉原の例の通り魔事件について。何度か紹介している心理学サイト「こころの散歩道」で、記事が出ました。


秋葉原通り魔事件の犯罪心理学
http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/news2/2008/akihabara_stabbing_case.html


「現代の青年たちは、皆「表現したがっている」ように思う。勉強やスポーツが優秀なだけでも満足出来ない。芸人さんのように、個性的で目立ちかっこ良く生きなければ、納得できないのではないか。」
「そういったかっこ良い生き方のレールから、一歩はずれてしまうと、もう他の価値観を見いだせない。周りも認めてくれない。やがて社会に対する不満を募らせていく。」


・・・なるほどとは思う。しかしそんな挫折感は、大なり小なり、誰しもが抱えているものではないのか。それでもなんとか、発想を転換し妥協と折り合いを重ねて、皆生きて来ているでなないか。不満を抱えながらも、凶行に及ぶ人と及ばない人との違いは、いったいどこなのか。心理学者たちはそこの違いの理由を、どう説明するのか。


私は、心理学や精神分析はむしろ大いに支持する方だ。宗教や道徳が崩壊した現代で、それに取って代われるものだとさえ思う。ストレス社会といわれ、職場とかでも「メンタルヘルス」とか言われ出した昨今、心理学や精神衛生への知識を磨くことは、現代人にとって「必修科目」にさえなってきた、と思う。


しかしそれでも、心理学者や精神科医がテレビなどに出て、犯人の生い立ちを検証し、挫折体験があったとかなかったとか、父親像がどうだったとか、紋切り型の精神分析を講釈されると、「そんな単純に決めつけられるモンじゃねーだろ!」とツッコンでしまう。怒りすら覚える。


「魔が差す」という言葉がある。一見無責任なように感じる言葉だが、「魔」は誰の身の上にも起こりえる可能性を秘めている。だからこそ、怒りや不満などの、自分の中のどす黒い部分を認め、気をつけようと思うのだ。心理分析よりよほど、昔からの知恵であるこっちのほうが、いいではないか。どうだろう。


・・・といいつつも、やはりメンタルヘルスへの理解と、偏見をなくすための知識の習得は、有効ではあるが……。