尊大な思想は要らない

・・・植木等さんが亡くなった。

昭和の偉大なお笑いスター。皆、その業績をたたえることになるだろう。しかし私は、何かそのどれも、しっくりと納得いかない部分がある。あえて言うが、クレイジーキャッツは、映画「無責任シリーズ」は、偉大さ尊大さとは、全く遠いものだと思う。ただ、くだらなくて、無茶で、荒唐無稽なパワーに溢れたものだった。それだけだ。高度成長期に人間性を失っていくサラリーマン社会を皮肉ったとか、笑いの奥にシニカルな思想や批評性を見る向きもあろうが、それは後世の人が付け足したものだ。植木さん自身は、無責任どころかくそまじめで良識と責任感のカタマリみたいな人だったと言う。無責任男は、あくまで青島さんが描く「キャラ」だったわけで、植木さんはそれを責任を持って演じた「俳優」だった。その出発点はまず「面白い!」ことを感覚的に目指したもので、反骨とか批判とか、そんな嫌らしく意図的な思想は、ないと思う。そこに、いろいろ、後になって「こういう思想を表現した」とか言われるのは、なんか違う気がするのだ。

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・・・国営放送で「宮崎駿監督に100日密着」という企画をやっていた。

この人もまた、いろいろ偉大な映画監督という評価がある。コレについても私はあえていう。宮崎駿はただの絵描きで、偉大な映画監督とか、尊大な思想の表現者とは、一番縁遠い人だ。作品の奥に文明批判や思想を見る向きもあろうが、それは後から無理矢理付け足されたモノだ。本人はただ単に、飛行機や舟が好きで、絵が好きで、そんな少年が大人になって、爺さんになったようなものだ。番組の中でご本人も言ってらしたが「この作品のテーマはこれだとか、言葉で言えるようなものだったら、アニメなんかにしないで文章でそう書けばいい。言葉で言える表現を、自分はあまり信用しない」と。

クレイジーキャッツにも、宮崎アニメにも、尊大な思想など、そこにはかけらもないし、いらないのだ。あるのはただ、一瞬のナンセンス、一枚の絵だけだ。植木さんも宮崎駿監督も、それでいいと思うのだ。